[讃美歌]200,155,464,77、
[交読詩編]121:1~8、
[聖書日課]エゼキエル12:21~28、ルカ12:35~48、
主の来臨、というテーマはこの手紙の4章にもあります。そちらのほうが有名であり、葬儀や記念式、追悼礼拝などでも良く朗読されています。またこの後にある第二の手紙1章も、来臨について語ります。そちらではなく、この箇所が選ばれたのは何故だろうか、というのが、私の第一印象です。ご一緒に考えてゆきましょう。
どうしたことか、註解書が見付かりません。どうしましょうか。
まず、テサロニケの信徒への第一の手紙とはどのようなものでしょうか。
パウロの13書簡のうち、最初に書かれたもの、として知られています。おそらく紀元50年から52年の終わりまでに書かれたものであるとみなされています。
この手紙は、テモテがマケドニアからコリントのパウロのもとへ戻った後で、テサロニケの教会の様子を知って書いたと考えられます(使徒言行録18:1~5、Ⅰテサロ3:6参照)。テモテの報告からパウロはテサロニケの教会が良い状態にあることを喜びつつも、自分の教えが間違ってとらえられていることにも気がつきました。パウロはこの手紙によってそれらの誤りを正し、聖なるものになることを神が望んでいると重ねて強調します。
テサロニケとは何処にあるでしょうか。イタリア半島の東はアドリア海。それを越えるとアカヤ、マケドニアがありエーゲ海が広がります。多島海と呼ばれるように多くの島々が見える。北東へ行くとダーダネルス海峡があり、ここから北上すればマルメラ海を経て、ボスポラス海峡を抜ければ黒海に入ることが出来ます。
アカヤ東岸を北上してマケドニア。その北部にテルマ湾がある。テルマは温泉を意味します。昔は、この近くで温泉が湧いていたようです。この北端に位置するのが海港テサロニケです。ある時期はサロニカと呼ばれましたが、今は旧に復しています。
紀元前315年ごろ、マケドニア王カッサンドラがこの地に新しい町を建設しました。お妃テサロニカ(アレクサンドロス大王の異母妹)の名にちなんでテサロニケと命名しました。
ローマの属領と成ったのは前168年のことです。前146年、マケドニア州の首都となります。前42年、ローマ帝国内乱に際し、フィリピ付近の戦いでオクタヴィアヌスに加担し、褒賞として自由都市の特権を与えられます。
使徒言行録では、パウロの第二回伝道旅行に現れます。
第一回の伝道旅行は、アジア州(今のトルコ)の東南部分を巡っています。
第二回目は、アジア州を西へ進み、ヨーロッパに足を踏み入れることになります。
ことの始まりは16章で、トロアスに下ったパウロが、幻によってヨーロッパへ渡り、マケドニア人を助けることになります。行った所がフィリピでした。紫布の商人リディアという婦人が、パウロの教えを受け入れて、この地の教会の中心となります。
この町で、パウロとシラスは、金儲けが出来なくなった占い女の主人に訴えられ、投獄されます。その夜、大地震が起きます。囚人が逃げたに違いないと信じた看守は、自殺しようとします。二人は逃げていないことを告げて、看守を安心させます。看守は、命の恩人であるパウロとシラスが告げることを信じ、イエスこそ主である、ことを受け入れ、家族ともども洗礼を受けました。
朝になり、町の役人が釈放しようとしますが、パウロは抗議します。
16:37「ローマ帝国の市民権を持つ私たちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」
これを聞いた高官、彼らはこの町の自治を委ねられた人たち、彼らは、驚き、二人に詫びを言い、丁重に、町を出てくれるように頼み込みます。
ローマ帝国は、属州などの自治を重んじます。それだけに治安の維持を大事にしました。
暴動や反乱などが起これば、自治は取り上げられ、ローマ総督と軍団兵により支配されることになります。パウロたちは、騒ぎ立てることなく、リディアの家に行って、仲間達に会い、事情を語り、励まします。
パウロは、ヨーロッパに渡って最初の活動をフィリピで行いました。
その後、テサロニケへ行きます。ここには、ユダヤ人の会堂がありました。
17章1節「パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。」
パウロは、ユダヤ人の会堂で、三回の安息日に亘って論じ合いました。
言行録や、その他この時代の歴史を描いたものでは、このように時期、期間をはっきりさせるのは珍しい部類になります。何故、三回と書くのでしょうか。論じ合う状況で三回は長いか、短いか。短い、と感じます。内容、中身を見ましょう。
ユダヤ人が信じる旧約聖書、その中のメシアの到来が中心の議題になります。このメシアについては、政治、軍事、宗教など様々な理解があります。テサロニケのユダヤ人たちも、平均的なメシア像を描き、信じていたことでしょう。
それに対して、パウロは、聖書が教えるメシアとは、十字架につけられ、葬られ、甦ったイエスという男です、と主張しました。論議は紛糾しました。
三回の安息日に亘って、というのは論議が決着したのではなく、中断させた、と推測します。紛糾して、相互理解不能と判断されたのでしょう。だいぶ熱い論争だったようです。
当分、頭を冷やしましょう、ということでしょう。
そうした中でも、ユダヤ人、ギリシャ人、主だった婦人達が、パウロたちの説明に納得し、二人に従いました。
このとき、会堂のユダヤ人たちは、妬みを起こしました。妬まれるほどにパウロたちの関係は親密なものだったのでしょう。
妬み、「妬み」=人の優秀さ、幸福、幸運などを、羨ましく憎いと思う、こと。
会堂のユダヤ人は、何に対し妬みを起こしたのでしょうか。
パウロたちに従っていった人々への妬みではなく、パウロたちに対するものと考えます。
主だった婦人たちやギリシャ人たちが、従って行ったことに対しての妬み。
彼ら、彼女達を説得する力、ひきつけ従わせる能力。
信じさせる人格的力。
これらは、持っている人にとっては当たり前のものであり、特別なものではありません。
しかしこれらを書いている人にとっては、全く特別、格別なものであり、垂涎ものです。
妬みが原因で、殺人事件なども起こされます。たかが妬み、と軽く見てはなりません。
英国の作家ウイリアム・シェイクスピアは、作品『オテロ』で、妬みの恐ろしさを描き出しました。
パウロたちもそのことを知っていたのでしょう。いずこへか身を隠しました。
人々は、ヤソンの家に違いないと思い込み、ヤソンの家を襲い、見付からないと、ヤソンと数人の兄弟たちを捕らえ、町の当局者のところへ引き立てます。後略
テサロニケのユダヤ人たちは、かなりユダヤ教の伝統的な考えに固執しています。
ここに登場するヤソンは、ローマ16:21に、協力者テモテと並んで同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなた方によろしく、と書かれています。長い間、パウロの働きを支えて、良い交わりを続けていたことが判ります。
パウロはテサロニケの最初の伝道者でした。その教会を建設した人です。同時に、テサロニケのユダヤ人たちは、パウロの活動を聞くと、その土地へ出かけていって、その活動の邪魔をするのでした。そうした状況の中でのこの手紙です。
パウロのもとに、テサロニケの人々の信仰について知らせが入りました。肯定的な、喜びに溢れる知らせでした。その中に見過ごせないものがありました。テサロニケの人たちが、「主の来臨」を誤解しているようだ、ということです。そこでこの手紙を送ることにしました。微妙な問題です。ほかのことを書きつつ、次第にそのことに触れるようにする。ずいぶん気を遣っています。
「主の来臨」については、本日の日課、福音書が教えています。
ルカ12:35~48、人の子、僕の主人は、予想しない日、思いがけない時に帰って来て、
40節,46節に同じ言葉が繰り返されます。「思いがけない時に帰ってきて」。
テサロニケの人たちは、間もなく主は来られる、と考えていたのでしょう。当時は、多くの人たちが、間もなく、と信じていたようです。使徒言行録5章のアナニアとサッピラの出来事の背景になっている、と考えられます。
紀元1世紀の終わりごろに書かれたヨハネの黙示録は、はじめから「後に来られる方(やがて来られる方、やがて来るべき方)」の来臨を、繰り返し告げ知らせています。1章4節、7節、8節。そして最後の22章において、主キリストご自身が「わたしはすぐに来る」(20節)と、そして他にも二度繰り返して約束しています。22章7、12節。
新約聖書の最後に登場する預言書。紀元96年頃、パトモス島のヨハネによって書かれたとされています。「黙示録」は恐怖に満ちた内容であるため、長い間“異端の書”として扱われてきました。ローマ・カトリック教会が正典として認めたのは2世紀中頃ですが、それ以後も「偽預言書」といわれ、なかなか完全には受け入れられなかったようです。
主が来られる、主の御意志によるものであって、われわれ人間の都合で決めるようなことではありません。パウロは、それを決めるのではなく、それまでの生き方を考えるように求めます。
大雑把に言えば、信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐を勧めます。これらは、全てのキリスト者の持つべき信仰の姿勢です。一人ひとりの生き方がそのまま伝道になります。
伝道に必要なことは、第一に能力。この能力は言の能力のみではなく、生活態度そのものに能力があることです。第二は聖霊であって、聖霊の導きなしには如何に人智を搾り出しても真の伝道をすることはできない。第三は確信であって、自分が信じていないことを人に信じさせることはできません。この三つのうち一つを欠いても伝道者としての資格はありません。これらのすべてを欠く場合は、その伝道は全く無力です(5節)。
私たちは、再臨がいつか、ではなく、それまでをどのように生きるか、考えるように求められています。今の時を、より良く、多くの人と共に、平和に生きてゆきましょう。