2015年8月23日日曜日

正しい服従

[聖書]ローマ14:1~9、
[讃美歌]200、132,457、
[交読詩編]92:2~16、
[聖書日課]出エジプト23:10~13、ルカ14:1~6、

教会暦に従い聖書日課が決められています。主題も与えられています。
今朝は《正しい服従》となります。これを見て最初に感じたことは、それでは「悪い服従」があるはずだ、ということでした。

神学生の頃、『異常心理学講座』全10巻を購入しました。とても全部を読むことなど出来ません。気になるところだけ拾い読みしました。
異常心理学とはどのようなものか。人間心理を考えようとする時、正常な心理とはどういうものか分らない、分りにくい、なかなか説明できない、となります。
そこで研究者は考えました。「正常」が分らなくても、何が「異常」であるかは判るだろう。これは異常である、というものを研究し、そこから正常とはどういうものか、見つけることが出来るだろう。こうして異常な心理を研究する学問が発展しました。

大阪の高槻市で女の子の亡骸が発見されて十日ほどになります。多数の切り傷、窒息死。何による窒息かは知らされていません。捜査上必要な秘密なのでしょう。絞殺か、扼殺か、それ以外の理由、失血性ショックなのか、不明です。このような事案は、まさに異常心理学・犯罪心理学の対象になります。そればかりではなく、浅く、致命傷にはならないたくさんの切り傷、これ自体異常としか言えません。

こうした学びによって、物事には表と裏がある、陽と陰、正と負(プラスとマイナス)があることを知りました。すでに生活の中で知っていたことですが、学問的にも指摘されたことになりました。一面的ではなく、多面的に物を見て、考え、語るようになりました。
学長は、伝道師の頃の私の説教を聞いて、肯定的なことだけではなく、異なった意見、主張を挟んで、それを否定して肯定的なことへ移ると、説教が深くなるよ、と教えてくださいました。説教と異常心理とが結びつくとは、思いがけないことでした。

本日の日課のうち旧約から読むことにしましょう。出エジプト記231013です。
ここには、安息年と安息日の定めが記されます。安息年は、大地に七年目毎に休みを与えなさい、という定めです。その休みの間は、土地を持たない貧しい民が自由にその畑から取って食べることが出来ました。農地に休耕年を与え、地力を回復させる。同時に貧しい人を助ける。現代の集約・収奪農法とはだいぶ違います。

「肥料の大量投下による大量収穫は、やがて大地が何も生み出さなくなる時を迎える。人々は地球を棄て、地球から離れ、銀河宇宙へ飛び出して行く。長い歳月の後、彼らの子孫は、銀河の果てに美しい星を見つける。伝説のテラだった。そこでは、人間が鍬、鋤を手に土を耕していた。伝説の母星へ還ってきた者たちは新しい希望を見出し、慰めを得た。」
これは、アイザック・アシモフ『銀河帝国の興亡』の記憶です。半世紀前。
大地には、休みを与えねばなりません。人間も同じです。それが、安息日です。

安息日は、すべての人が七日目ごとにすべての仕事をやめて休息を取り、家畜も奴隷も寄留の者も、すべてが元気を回復する定めです。これは、神が創造の仕事を完成された日を記念するものです。(創世223209113114153421、レビ233、申命51314参照。こうしたことをヘブライ人は、3000年前に知っていました。

主イエスは、安息日を知り、守っておられました。
本日の福音書日課、ルカ福音書1416、を御覧ください。
安息日にイエスは、ファリサイ派の有力者の家に入られます。ファリサイ派の人は、掟にあるように親切にすること、学ぶことを大事にしていたのでしょう。イエスを招いて会食し、その教えに耳を傾けました。大勢の人たちがいました。彼らは、イエスとはどんな人だろう、と様子を伺っています。そこに水腫を患っている病人がいました。

「水腫」とは、リンパ液や体液のバランスが崩れて、患部が異常にむくむ病気です。心臓や腎臓の機能が低下したり、栄養不良になったりすると、全身に浮腫が現れることがあります。当時は、この病気に対する偏見があって、神から呪われた結果であると受け取られていたようです。ラビたちは、性的不品行の罪の結果と考えたとされています。ですから、彼に同情を寄せる人はなく、当然彼の癒しを願う人もなかったと思われます。本来、彼はこのファリサイ人の家にいるはずがありません。その病人、神に呪われたと考えられている人が連れて来られた時、その噂が伝わりました。何かが起こりそうだ!
家の中や外から、多くの人がイエスの様子を伺っています。

そこで主は、律法学者やファリサイ派の人たちに質問されます。安息日に病気を癒やすことは許されているか、いないか、と。当然、公式的には許されていません。しかし、誰も答えませんでした。彼らは公式のもつ問題を承知していたのです。
彼らの眼の前で主イエスは、この病人を癒やされました。そして皆に言われます。「人間の場合、病気を治してはならない、などと言いながら、あなたがたは自分の息子や牛の問題であれば、大胆に掟を破るでしょう」。彼らの沈黙は承認です。主は律法厳守の現実をご存知です。掟が禁じていても、自分にとって不利益になることは、大胆にも破っていました。

「水腫の人」が癒されても誰の利益にもなりません。喜びにもなりません。彼は、主イエスが安息日に病気を癒されるか否か、癒されるなら掟を破った、と言って攻撃するための材料とするために連れて来られました。彼は、ここにいる多くの人の道具にされています。彼に対する愛は見られません。非人間化、非人格化されています。主イエスの癒しは、病気を癒すことによって、病気の人の人格を回復されました。

そして、イエスが彼を癒すかどうかに、みなの視線が釘付けになりました。このような敵対的な視線の真っ只中で、イエスは癒しを行われたのです。
旧約聖書では神に呪われた結果とする箇所もあるのですが(民数記521-22)、〈水腫〉という病気のすべてが呪われた結果とされているわけではありません。これは、他の病気にも言えることです。
このように、部分的な記述や信条の一部だけを絶対的な原理と見なして、それであらゆることを一元的に解釈することを、原理主義と言います。原理主義が価値観や世界観に現れると、大きな悲劇に繋がることがあります。原理主義は、現在の国際社会への最大の脅威ですが、元はといえば、個人の心の中で起こるものです。イエスは、このような原理主義の立場を決して採られませんでした。イエスの聖書解釈は、聖書の一部によって、世界のすべてを解釈する原理主義とはまったく違ったものです。まず聖書全体を網羅するような包括的なものでしたから、また、解釈の適用も相手の立場を無視して一方的に押し付けるものではなくて、相手の立場を十分に理解した上で、適切に適用されたのです。このような聖書解釈が、癒しに繋がったのです。

本日、使徒書の日課はローマ1419です。
ここで語られているのは、ユダヤ人が守るべき食物規定遵守に関わることです。ユダヤの律法には、食べ物に関する規定があります。反芻しない動物、蹄の分かれていない動物、鱗のない魚は食べてはならない、とされます。
ここには問題があります。神様は、お創りになったものすべてを、よろしいといって祝福されたではないか(創世1章)、何故穢れているから食べてはならない、とするのか。

長い間、ひそかに問題視されていたのでしょう。主イエスの登場によって安息日規定が見直されると、弟子たちの教会では、神が創られたもの、神が清められたものを穢れているなどと言ってはならない、とされました(言行録11118)。特定の規定や慣習に従うことで神に義と認められるのではなく、神はすべての人をその食習慣に関わらず、受け入れてくださっているのです。
これは食物にとどまりません。大きな展開が用意されていました。人間そのものに関わることが明らかになります。それまで異邦人と呼ばれ、ユダヤ教の中に受け入れられなかった人たちが、キリストの教会に受け入れられるようになったのです。
人は自分を基準にして他の人を裁きます。自分が食べない穢れたものを食べているから、あの人は悪い。自分がした良い事を彼はしていないから駄目だ。
このような裁きをやめるように、パウロは書いています。すでに赦され、共に生きるように勧めています。受け入れられているからです。Ⅰコリント1025以下は、食物規定に関するものです。そこでパウロはこのように書きます。31
「だから、あなた方は食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を表すためにしなさい」。

ローマ148で、パウロはこのように語ります。彼の信仰の言葉です。
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです。」
「主のため、主のもの」、これは主の栄光を表すことだ、と理解できます。

正しい服従は、律法の字句を忠実に守ることではありません。あるいは、人の立てた思想や学説、解釈を絶対視することでもありません。もし私たちの実績などが赦しの条件になったら、それを満たすことの出来る人はいません。
無条件、無前提で、罪の赦しが与えられるところに福音があります。律法をお与えくださった神の御意志を知り、その恵みの意志、救いのご計画を受け入れることが信仰、正しい服従です。感謝して祈りましょう。