2015年8月2日日曜日

隣人


[聖書]ローマの信徒への手紙12章9~12節
[讃美歌]200,475,371、
[交読詩編]122:1~9、

本日の聖書日課、ローマ書12章は、有名な箇所です。
「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(口語訳)で始まります。愛誦聖句にしておられる方も多いと思います。

無教会派の内村鑑三先生には多くの弟子が生まれました。丸の内工業ビルで集会を開いた塚本虎二もその一人。その集会には、後に最高裁判所長官となる藤林益三さんが居られました。藤林さんは、丸の内集会の指導者のひとりとなります。塚本先生は、聖書の翻訳を出版されています。ロマ121には、大変長い加筆があります。
塚本訳 (このように、神は偉大な計画によって人類を一人のこらず救おうとしておられるのであって、救いは確かである。)だから、兄弟たちよ、わたしは神のこの慈悲を指してあなた達に勧める。あなた達の体を(感謝のしるしとして神に)捧げよ。この生きた聖なる犠牲こそ、神のお気に入るものであり、(霊なる神を拝むにふさわしい、)あなた達の霊的な礼拝である。(あなた達の礼拝は動物を供えるような不合理なものでなく、全心全霊をささげる合理的な礼拝でなければならならない)

よく読まれるには、何か理由があるのだろう、と思います。塚本訳が付け加えている部分は、キリストを信じる者が新しい生き方をする理由、そしてその方向を書いています。
そしてその生き方の模範例が9節以下に続いています。救いは確かなものである。だから感謝の印としてその体を神に捧げなさい、これこそ神が喜ばれる霊的な礼拝である。

ここで鍵になる言葉は、3節『自分を過大評価してはなりません。・・・慎み深く評価すべきです。』ということでしょう。これは『キリストの心(を心とする)』ことに他なりません。712日の説教でした。キリスト信仰の生き方とは、自分を偉いものの様に考えることなく、仕える僕となって行くことにあります。
これが、謙遜な生き方ですが、ここにもう一つの要素が働きます。各人には、それぞれ能力が与えられている、ということです。自分とは違う隣り人に気付く、と言えるでしょう。
日本のわたし達が、特に注意すべきことです。私たちの考えの中には、みんなが変わりなく、同じである、とするものがあります。和、平和の和、輪になって一つになるの輪。
独自性、ユニークの類を喜びません。出る杭を叩く、とよく言われます。一人ひとり異なった能力があり、それを発揮することが大事。
互いに他の人を尊重すれば、平和に生きて行けるのではないでしょうか。
世界連邦主義、という考え方があります。現在の国益中心主義とは反対のあり方です。
それぞれの国が、なくてはならないあり方を選び、進めるなら、それぞれを尊重せざるを得なくなる。地球上から抹殺する、こともできなくなるでしょう。たとえば、わが国。
国土は小さい。国民は勤勉、科学技術に優れる。新しい技術や製品を生み出す能力。
日本は世界に貢献できるなら、世界はこの国を見棄てはしない。互いに助け合う世界が出来るのだ。
 
世界平和は、戦争によってはもたらされません。
戦争によらず、武器によらず、敵に食料を、水を送ることで達成される平和を求めましょう。
 
旧約の日課は、出エジプト222025です。(口語訳)
22:20主のほか、他の神々に犠牲をささげる者は、断ち滅ぼされなければならない。
22:21あなたは寄留の他国人を苦しめてはならない。また、これをしえたげてはならない。あなたがたも、かつてエジプトの国で、寄留の他国人であったからである。
22:22あなたがたはすべて寡婦、または孤児を悩ましてはならない。
22:23もしあなたが彼らを悩まして、彼らがわたしにむかって叫ぶならば、わたしは必ずその叫びを聞くであろう。
22:24そしてわたしの怒りは燃えたち、つるぎをもってあなたがたを殺すであろう。あなたがたの妻は寡婦となり、あなたがたの子供たちは孤児となるであろう。
22:25あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。

この出エジプト22章は、イスラエル人が守るべき生活の指針の一部です。
このような小さな部分でも読んでみると、ある種の驚きを感じさせられます。
3000年以上昔に、これほど人道主義的な考え方があったとは、という思いです。
聖書の人物、アブラハムの時代は、学者先生が研究した結果、中近東では良く知られた古バビロニア帝国のハムラビ王の時代と近い、と言われています。紀元前1700年台がハムラピ、1600年ごろがアブラハム。殆ど同時代といっても良いのではないでしょうか。

ハムラビ法典は完全なかたちで残る世界で2番目に古い法典である(現存する世界最古の法典はウル・ナンム法典およびエシュヌンナ法典、リピト・イシュタル法典)。

ハムラビ法典はあとになって石柱に書き写され、バビロンのマルドゥク神殿に置かれました。以後の楔形文字の基本となります。ハムラビの法治国家宣言と考えています。
1901年、高さ2.25mの閃緑岩石柱に刻まれたものがイランのスサで発見されました。
紀元前12世紀にバビロンから奪われたものです。現在はパリのルーヴル美術館が所蔵し、レプリカをや岡山市北区の岡山市立オリエント美術館、東京池袋の古代オリエント博物館、三鷹市の中近東文化センター(神学生時代お隣に出来ました)、東広島市の広島大学文学部(広島大学総合博物館文学研究科サテライト館)等で観ることができます。

「前書き・本文・後書き」の3部構成となっている。本文は慣習法を成文化した282条からなり、13条及び66-99条が失われている。前書きにはハムラビの業績が述べられており、後書きにはハムラビの願いが記されている。

財産の保障なども含まれており、ハムラビ法典の内容を精査すると奴隷階級であっても一定の権利を認め、条件によっては奴隷解放を認める条文が存在し、女性の権利(女性の側から離婚する権利や夫と死別した寡婦を擁護する条文)が含まれています。後世のセム系民族の慣習では女性の権利はかなり制限されるのでかなり異例ですが、これは女性の地位が高かったシュメール文明の影響との意見があります。
罪刑法定主義・公平性・弱者救済・等の概念を持つこの法典は、当時の中近東一帯でよく知られる口伝・慣習法を集め、編集したものです。

古代人は、決して野蛮人などではありません。核兵器を考え、実際に使い、焼夷弾を造り絨毯爆撃による無差別攻撃を当たり前のこと、と主張する現代人のほうがよほど野蛮人ではないでしょうか。どちらが隣り人を知っているでしょうか。

福音書の日課は、ルカ102542です。有名な善いサマリア人の譬え、とマルタとマリアの物語です。
律法の専門家が、イエスに質問します。永遠の生命を受けるために何をしたらよいか。
イエスは、質問を返されます。律法には何と書いてあるか。
律法の専門家は、神を愛することと隣人を愛することです、と答えました。自分を愛するように隣人を愛しなさい、これを実行しなさい、といわれたこの専門家。隣り人の範囲を出来るだけ限定したいと考えています。その後、主イエスとの問答の中で、隣人を愛することが問題の中心点になり、善いサマリア人の譬話となりました。その譬は、誰が隣人で誰はそうではない、という限定を許さないものでした。行って、あなたも隣り人になりなさい。ここまでは、馴染み深いところです。

神を愛することについては如何でしょうか。
「心を尽し、精神を尽し、力を尽し、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい」(27節)、ユダヤ教徒は誰でもこども時代から教えられています。
 
神を愛するとはどういうことか?と、ここで語っています。それが、このところの後半部103842節です。
神を愛するとはどういうことか? それは主イエスの話に聞き入ること、神の言葉を聞くことにほかならないと、ルカは、〈マルタとマリア〉の話を通して答えを示しています。
 実は神を愛するとはどういうことか、分かっているようで、分かっていないことです。
「神さまを愛するって、どういうことですか?と聞かれたら、何と答えましょうか?
礼拝に出席すること、献金を献げること、奉仕をすること、お祈りをすること‥‥‥どれも間違ってはいません。けれども、それらすべての営みの始めに置かれるべきこと、根本的に求められていることは、主イエスの教え、神の言葉を聞くということです。

主イエスの御言葉を聞かないマルタに何が起こっているのでしょうか。神中心になっていません。自己中心になっています。そして、自己正当化を起こしています。私はイエスさまをもてなしている。イエスさまのために奉仕している。だから、私は正しいのだ。何もしないマリアが、周りの人たちが間違っているのだ。それを認めようとしないイエスさまも間違っているのだ。そういう正当化が起こっています。直前の箇所で、律法の専門家が自分を正当化しようとした(29節)のと同じことです。

マルタという名前にも意味があります。「女主人」であると学びました。このマルタは、まさに自分が主人、自分が中心になっています。主イエスが人生の主人になってはいません。そういう自分を切り替えて、主イエスを主人とする生き方をする。主イエスの言葉、神の御言葉に聞き従う生き方を選ぶ。それが、神と隣りびとを愛することです。私たちの信仰生活にいちばん求められていることです。