[聖書]Ⅰテモテ6:Ⅰ~12、
[讃美歌]522、58,552,77、
[交読詩編]49:2~21、
[聖書日課]アモス8:4~7、ルカ16:1~13、
旧約聖書の箴言は、なかなか面白いことを書いています。
27:20「陰府と滅びとは飽くことなく、人の目もまた飽くことがない。」
30:15「蛭にふたりの娘があって、『与えよ、与えよ』という。
いや、四つあって、皆『もう、たくさんです』と言わない。
16すなわち陰府、不妊の胎、水にかわく地、「もう、たくさんだ」といわない火がそれである。」
人間の欲望は、血を吸う蛭と同じ。蛭は、動物に吸い付くと何時までも吸い続けて、已むことがなく、やがて破裂するに至るほどです。蛭の娘、それも四つある、と言うのも面白く感じます。陰府、不妊の胎、水にかわく地、もうたくさんだと言わない火。いずれもその状態が何時までも続きます。
ある幼稚園の二代目園長が送ってくれると言うので、園長会の帰り道、話をしました。
初代は、地元の小学校校長を退職後、幼稚園を始めました。大地主でしたので余っている土地の有効利用の面がありました。二代目は、まだお若くていらっしゃいましたが、残された事業を拡大し、名を挙げようとして一生懸命でした。800人規模で、町一番でした。園長会でもこの時も、金がない、金がない、と繰り返していました。勿論、わたしのほうはもっと金がありません。しかし、良い機会だから子どものこと、親達のこと、小学校との連携のことなど話そうと思っていたのです。残念でした。蛭のようだな、と感じた記憶があります。
WEBを検索していたら面白いものに当たりました。
≪金銭欲に相対するものは「満ち足りることを知る」ことである。
主イエスは「愚かな金持ち」のたとえ(ルカ12:13~21)を語られ、パウロも「わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができない」(Ⅰテモテ6:7)、「満ち足りることを知る者(6、8)となりなさい」と勧める。「食べる物と着る物」とは、恵み深き神が私たちを愛し育て養うためにお与え下さる「恵み」である。私たちはいつでも「主よ、感謝します。あなたの恵みは私に十分です。アーメン」と祈ることが許されている。
主の恵みと御愛に感謝しつつ、潔く義しい生涯を全うしましょう。ハレルヤ≫
これ自体は常識的な感じです。金銭欲を戒め、必要を満たしてくださる神の恵みに感謝しましょう、と勧めています。面白いのは、それに続く部分です。
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スポンサーとの契約で、毎回同じ場所に載せることになっているのでしょう。
何らかの意図があるとしたら、これはずいぶん意地の悪い、嘲笑的、挑戦的なことになります。禁欲的なことを言っているけど、本音は「金がほしい」じゃないのかね。
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」 秋を代表する正岡子規の名句。
子規が松山から上京する途中に立ち寄った法隆寺(奈良県)で詠まれた秋の句だと言われている。
境内の散策の後、休憩をとった茶屋で出された御所柿を食していると境内の大きな鐘楼から時を告げる鐘の音が聞こえてきた様子を詠んだもの。
季語は「柿」。鮮やかな秋の色をした柿と、美しい秋空の下に広がる法隆寺の抒情的な情景と荘厳な時の鐘の音を句に含め、人の五感を刺激して秋を感じさせる名句だと言われている。
「ああそれにしても~の欲しさよ」、若い、何も知らない学生時代。国文科に学んだ同年輩の友人が教えてくれました。いかにも真実味が溢れていました。オリンピックの頃のことでした。 『柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 ああそれにしても金の欲しさよ』
多くの人の本音、それは名誉が欲しい、賞賛が欲しい、たとえ家族からだけでも認めて欲しい。安定した生活のための基本的な財産が欲しい、せめて持ち家が欲しい。そうすれば退職した後、住む所で苦労しなくてすむから。こんな風に考えてみると、人間として最低限の望みであって、これが満たされたら、嬉しいこと、素敵なことのように考えたくなります。
日本人は、足ることを知りなさい、と教えてきた。儒教的な、仏教的な考えだろう。
『起きて半畳、寝て一畳』という言葉をご存知でしょうか。
どんなに大きな家に住んでいようと、人一人が占める場所は、起きているときは半畳、寝るときは一畳あれば充分足りることから言われるようになった、とされています。
後に「天下取っても二合半」と続けて言うようになりました。天下びとになった秀吉の言葉と伝えられます。どんなに食べても二合半あれば充分。
その「起きて半畳、寝て一畳」が意味することは、人は必要以上の富貴を望むべきではなく、満足することが大切であるという教え。
同じような教えがあるから、満足、と考えて終わっても良いのだろうか。
違いが判る男、と言うものがいるかもしれない。聖書は、同じようなことでも少々違うことを語るのではないだろうか。Ⅰテモテを見ましょう。
Ⅰテモテは、伝道者パウロが、若い伝道者テモテに書き送ったもの。
テトス書と共に牧会書簡と呼ばれています。
弟子のテトスとテモテを育てるために、教会運営を教えようとする『牧会』です。
パウロの手紙は全て牧会だ、と感じます。教会全体への牧会になります。
8節に注目してください。「食べる物と着る物があれば」と訳されています。
着る物は、スケパスマタ、新約聖書中ただ1回、ここにだけ用いられています。身を覆うもの、という意味の語で、衣服と訳されましたが、家をさしても用いられる語です。
衣服には通常他の語が用いられます。マタイ6:25,28、「体は衣服よりも大切」、
「衣服のことで思い悩むな」。この手紙の書き手は、衣服を超えて身を守るものを指し示そうとしているようです。スケパゾー・覆いをする。スケノス・うつわもの。スケーネー・天幕、幕屋(移動神殿)、至聖所、天の聖所。
家と言っても決して宮殿ではありません。身を守る程度の堅牢さがあれば充分。食物にしても山海の珍味を、香辛料をたくさん使って贅沢に仕立てることは考えてはいません。
日本人・わたし達にも禁欲的な清貧の考えがあります。すでに過去形になっているかもしれません。教会のわたし達は、それらは全て、唯一の創造神から来る、と信じています。
創造された方が、造られたものを、必ず守ってくださる、との信仰・信頼です。
それに対し、金銭の欲は、私たちの心を神への信頼ではなく、自分自身への誇りと集めた金銭に対する執着を生み出します。金銭は私たちの心を支配するのです。
わたし達が働いて財貨を獲得することは否定されません。その財貨によって心が支配され、神の栄光を表さなくなることが否定されます。獲得した財貨によってどれほど他の人に悦びを提供しているでしょうか。富は集めるためではなく、よく使うためのものです。それは自由であることの徴でしょう。
よく働き、よく獲得し、よく使いましょう。そして、他の人たちと共に喜び、生きることこそ肝要です。