2015年9月13日日曜日

新しい人間


[聖書]コロサイ31217

[讃美歌]522,361,475、
[交読詩編]37:7~22、

[聖書日課]創世37:(2~11)12~22、ルカ15:11~32、



ルカ151132、よく知られた「放蕩息子」のたとえ。

「放蕩息子の父」を題とした人もいる・小宮山牧師(逗子教会)。大胆ともいえます。でも、息子を主人公にする習慣のようなものがあり、それと違うものを前面に出すのは、私のようなものは躊躇います。やはり、しっかり勉強をした若い先生は、たいしたものです。



ある父親に二人の息子がいました。そのうち、弟は、財産の分け前をください、と言って、それを貰って出て行きました。都で遊び暮らしているうちに無一文になりました。誰も相手をしてくれなくなり、食べるものにも困窮して、ようやく眼が覚めました。父のもとへ帰ろう。そして言おう。

19息子と呼ばれる資格はありません、雇い人の一人にしてください。

22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。

23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。

24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。                                 

この息子は、新しい人間に生き返りました。



物語は、ここで終わりではありません。終わりなら、余程わかりやすいかも。

もう一人の息子、兄貴が登場します。彼は、歓迎の宴会の最中に帰ってきて、何事かを聞き、非常に怒ります。俺のためには何もしないのに、あんな奴のために、肥えた子牛をほふった、信じ難い、赦し難い。

出てきてなだめようとする父親に言います。遊女どもと一緒になって財産を食いつぶしたあなたの息子が帰ってくると、子牛をほふった。わたしは何年もあなたに仕えて一度も背いたことはありません。それなのに友人との楽しみのために子山羊一匹、くれたことはなかったでしょう。

32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』



弟息子に関しては、生まれ変わった、と言うことで、新しい人間であると言えるでしょう。

しかし、兄息子は如何でしょうか。何も変わらない新しくはなっていない

ここでは、父親が兄息子に対し、一切のものはお前のものだ、と語ったことに注意しましょう。彼が、大きな恵みに気付くように待っている父親であることに注意しましょう。

そしてこの父親は、キリストの父なる神を指しています。



旧約の日課は、創世37222、ヤコブの息子ヨセフの物語

父親ヤコブは、11番目に生まれたヨセフを特別に愛した。この子の母親ラケルをとりわけ愛していたことも、その理由の一つでしょう。ヨセフは、自分の存在、その言動が兄達にどのような影響を及ぼすか気付きませんでした。判ろうともしなかったのではないでしょうか。大変賢い人物です。優しい心根の人です。その気にさえなれば、他の人たち、兄弟たちの気持ちに気付いたことでしょう。父の優しさに甘えているうちに、腹立たしい存在になっていました。

教育、育児で偏愛は禁物。子ども達は等しく扱われることが重要です。親が特に気にかけるのは、必ずその理由があると理解したいものです。その子が不出来だから当然なのだ、と受け取ることでしょう。我が家の次男はまさにそれでした。一人だけ違う宗教に走り、牧師になった。不出来な上に親不幸。それも、運動神経も悪く、体も小さく、声も悪い。悪いところだらけだから親は心配し、好きなことをさせているのだろう、と考えます。



さて、このヨセフが、あるとき夢を見ました。畑の中で束を結わえていたら、兄さん達の束が、起き上がった私の束の周りに来て、私の束を拝みました。

兄弟たちは、この夢を解釈します。ヨセフが王となり兄達を治めるようになる、ということです。ヨセフの夢とそれを伝えたヨセフの言葉によって兄達はヨセフを憎みました。

もうひとつの夢があり、それも同じように伝えます。今回は父も聞いています。

「日と月と十一の星が私を拝みました。」日と月はこの一家の父と母を表し、星は子ども達。

十一あるのは、後にヨセフ同様ラケルを母として生まれるベニヤミンが加えられているものです。兄達は、これを聞いて妬んだ、と記されます。彼らにとってこの話は実体のない夢物語ではなく、実現することと思われたのでしょう。妬みが生じました。

「しかし父はこの言葉を心に留めました。」ルカ219では、マリアが、羊飼い達の身に起こった事を聴いた時に用いられています。また同じく251で、12歳のイエスと家族がエルサレム巡礼に出かけ、その帰り、イエス一人が人知れず神殿に残り学者達と討論していたときにも用いられています。新訳は1951節共に、「母はこれら全てを心に納めて、思い巡らしていた。」と訳しました。



ヨセフには、こうした心、思い巡らし考えることが欠けていました。

兄達の妬みと怒りは、ヨセフをミデアンの商人・イシマエルびとに売ってしまいます。それからのヨセフ、エジプトのパロの侍衛長ポテパルに売られます。この家で働き、成長し、全く新しい人になります。

455、神は命を救うために、あなた方よりも先にわたしを遣わされたのです。

ヨセフは、自分の生涯が他の人を生かすためのものである、と信じ告白しています。

これが、新しい人間です。



本日の使徒書、コロサイ31217は、3910の「あなたがたは、古き人を脱ぎ捨て、新しき人を着たのである」を具体的、実際的に言い表したものです。パウロが書いています。名宛人が読みますが、同時に多数の関係者が読み、時代を超えて諸教会の信徒、礼拝者がこれを読み、耳にします。あなた方、これは、私たちすべてのことです。



メソジストは、新しくなる、新人、新生、これを重視します。

余り新しくなってはいない、と言うのが実感です。個人的に考えても相変わらずの自分です。教会を考えてもそうです。旧態依然。この手紙の背景には、教会内の分裂、対立がありました。もう我慢できない、赦せない、と言う気分が横溢していたのでしょう。そこで、

13節「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦しあいなさい、」と言います。それでも赦すって困難です。パウロも知っています。13節後半に主イエスを引っ張り出します。「主があなた方を赦してくださったように、あなた方も同じようにしなさい。」



『新しい人間』は、古い服を脱いで新しい服を着るような感じに描かれています。確かにそうなんでしょう。これは自分の言葉で表現しないと納得できません。

新しいということは、神の所有になることです。パウロは、「聖」と言う言葉を使います。

私たちは様々な事柄について、自分を主張します。自分のもの、所有である、と。この主張はかなり強力です。手を変え、品を変えて現れて来ます。自主自立という言葉で、何もかも自分の手中に収めようとしています。この旧い服を脱ぎ去らなくてはならない。

新しい人間は、自分が神のものであることを大胆に認めます。そのことを喜び、感謝し、神を讃美します。キリストの贖い、キリストの平和、キリストの言葉を喜びます。

全てを主イエスの名によって行います。イエスを主と仰ぎ、イエスに従います。

新しい人間の群れが教会です。教会は礼拝・聖餐共同体です。



ジョン・ウェスレーは讃美歌を大事にしました。弟のチャールスは、英国の歴史上最大の讃美歌作者といわれます。この礼拝で後ほどご一緒に歌う475番は、チャ-ルス・ウェスレーの作品。全賛美歌の中でも第一等に値する、と評価されています。

礼拝賛美歌、奏楽曲の選曲は、牧師と奏楽者が協力すべきこと、と考えています。実際は、音楽面は何も判らない牧師もいるので、奏楽者にすっかりお任せと言うこともあるでしょう。私自身は、讃美歌の選択は共同作業。奏楽曲はお任せしています。

本日の475番は、お二人の奏楽者が別々に勧めてくださったものです。ぴったりです。

説教計画だけ牧師が作って、讃美歌はお任せした方が良いのかもしれません。



話を戻します。J・ウェスレーは讃美歌の歌い方について、次のように教えています。

○ 皆で歌いなさい。会衆と共に歌いなさい。心を合わせる

  • 適切に歌いなさい。わめくような歌い方をして、会衆の他の人の声から飛び出したり、別に聞こえたりすることのないようにしなさい。ハーモニーを乱さないように。
    コーラスのように、他の人の声を聴き、溶け込むように
  • 楽しく、意気揚々と歌いなさい。半分死んだような、あるいは眠っているような
    歌い方をしないように気を付けなさい。むしろ、力強く声を上げなさい。
    福音とは、喜びの訪れです。賛美歌はその応答として歌われます。
  • とりわけ、霊的に歌いなさい。神に目を向けて、一つ一つの言葉を歌いなさい。・・・
    自分自身を神にお捧げする心で歌いましょう。ローマ121
  • 神を喜ばせることを目的としなさい。そうするためには、歌っている言葉の意味にしっかり注意を払いなさい。


ある方にお会いしたことがあります。歌の才能に恵まれ、歌手になりたかったようですが、支援してくださる方たちの考えや、事情があり、伝道者になりました。歌う伝道者になりましたが、「僕は伝道者ではなく、歌手になりたいのだ」、と言いました。その後、テレビにも出るようになりました。きっと、満足しているでしょう。自分には才能が与えられている。それを用いることが、神に喜ばれることだ。と仰るでしょう。確かに、結構なことです。しかし、現実には、他の多くの歌手の中に埋もれてしまいました。

あの業界の使い捨て体質によるものかもしれません。やがて、もう一度波が来て、それに乗って浮かび上がるかもしれません。

キリストによって生かされて生きていることを証ししていた時は輝いていました。あの輝きは消えました。

自分の喜びを、名声を、豊かな富を、自分の満足を求めて、それを得たと考えた時、その手の中からスルット落ちて行きました。



わたし達は、神に所有されているという意味で聖なるもの、新しい人間です。

この大きな恵みを知り、感謝し、讃美しようではありませんか。