2014年10月19日日曜日

身を清くするには何を

[聖書]ルカ113754
[讃美歌]200,211,483,77、
[交読詩編]146:1~10、

 

ルカ福音書は、意外なことを、私たちに教えてくれています。

主イエスは、安息日には、先ず会堂の礼拝を守っていたようです。終わってからどうしていたのでしょうか。安息日は、労働から解放されるときです。お店はありません。自分たちで料理することも出来ません。英国、イングランド北部、スコットランドとの境界近く、東部の海岸近く、ダーラムという古い町には、サンデイ・ランチ、と言う風習があるそうです。日曜日、教会の礼拝に新来者、旅人などがあると、教会の人が自分の家に招き入れ、前日の内に用意を整えておいたサンドイッチなどの昼食を共にする信仰的な慣わしです。

 

ユダヤでも同じような習慣があったようです。主イエスは礼拝後、その地域の人に招かれておられたようです。それもファリサイ人から。律法は、旅人をもてなすことを求めます。ファリサイの人たちは律法を守ることに熱心でした。

主イエスも人々も、ここでは、何ら驚きを見せずに、招待をお受けになっています。主が罪人、徴税人の家に入れば、人々の驚きの声が記されます。ここでは何もありません。

マルコ216(ルカ52732)、レビの家で食事、ファリサイ派の学者が、なぜ徴税人や罪人と一緒に食事をするのか、と弟子達に言う。

 

ルカ736、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をして欲しいと願った。罪深い女が・・・

このくだりは、一日の最初の食事を正午に取るギリシャ的習慣が背景にあるらしい。

食前の手洗いは、律法学者の言い伝えによって定められた習慣です。

「洗う」という言葉は、両手をすっかり水に浸すことを意味しています。

 

また、ファリサイ派の人たちと常に敵対関係にあった、と考えることも難しいのです。

ルカ1331、ファリサイ派の人々が何人か近寄ってきてイエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」

イエスとファリサイ派、律法学者の関係は、これまで一般的に言われてきたような、単純な敵対関係ではないようです。

 

私たちは、ユダヤ人の間に食事に関する厳しい定めがあることを知っています。

それは食材に関する規定であり、清いものだけを食べることになっています。その為に証明書があり、それを見て確認できなければ、飢え死にすることも止む無し、と考えるのがユダヤ人。

ここで問題になっているのは、食材ではなく、食事前に手を洗うことです。清い食材を正しく調理されたものでないと、どれほどおいしそうに見えても、食べる気持ちにはならないでしょう。一般的には、人は食べることに関しては、かなり保守的です。マナーとして考えても、やはりだいぶ保守だと思います。中国では大声でおしゃべりしながら、あちこち、食い散らかすのが当然とされている、と聞いても、中華料理店で日本人は静かに、綺麗に食事をしています。そうしないと、美味しく感じられないのです。

ユダヤの人たちは、掟どおりに手を清めてからでないと、そもそも食べる気にもならないのではないでしょうか。それでも、航空機の機内食の場合、コーシャ料理を提供され、食べ始めたユダヤ人のカップル。彼らが、手を洗うことはなかった、と記憶しています。

おそらく、旅行中は免除されているのでしょう。

 

 食前に手を洗うことは、きわめて厳格な形で、儀礼化されていました。

使われる水は、卵の殻一杯半、水は指先に注がれ、手首へと流れさせる。次にそれぞれの手の甲が、こぶしをこするようにして清められるようにする。最後にもう一度手に水を注ぎかける。今度は、手首から始めて、指先へと注がれる。

 律法学者により作られ、磨き上げられたこの決まりを、ユダヤ人達は厳しく守っていました。そのことを止めなさい、とは言われません。主は、同じように心を清めることに熱心になりなさい、と指摘されます。

 

 イエスによるファリサイ人への批判は、大きく三つに分けられています。

第一は、律法の詳細な規則に細心の注意を払う一方で神の義と愛とを無視すること。

第二は、席への関心とプライドにむやみに執着すること。

第三は、埋められた墓のように民の生を隠れて汚す存在であること。

 

 イエスは、次のようなことで律法の専門家を批判します。

第一は、他の人々には重荷を負わせているのに自分には免除を求めること。お手盛り。

第二は、死んだ預言者達を褒め称えてはいるが、その一方で彼らを殺すことに同意し、それに手を貸したこと。

第三は、彼らの生活とその教えとの間には大きな矛盾があって、そのことによって人々を混乱させたこと。

 

ルカ福音書は、イエスの時代、その聴衆だけのものではありません。

次の時代、更に後の時代の教会を意識しています。学者への言葉は、

 

イエスは、制度化された宗教に非難を浴びせかけるようなアウトサイダーではありません。

むしろ彼は、自己を絶対の存在としてしまった宗教に対して、鋭い批判を行う者です。

その宗教は、命のために与えられた原理を、息苦しさと審決をもたらす規則へと硬化させ、敬虔さを計量化し、その本質を失い、要するに自己批判能力を失ってしまっているのです。不断に自己を向上させ、自らを正すということをしないと、あらゆる宗教の構造は、偶像崇拝へと堕落してしまいます。

 

40節、ファリサイ人たちは肉体や器物を念入りに清潔に保てば神を崇めることになると信じるのだが、その時人間全体の、とりわけ心の~心の中で、人々の外的行動を決定する内的行動が起こるのだから(創世821を必ず参照)~創造者としての神を崇めねばならないのだ、ということを忘れていた(マタイ1517以下、ロマ124以下)。しかし、貪りと悪意が生活の実態を決定しているので、人々は清い心を持つことが出来ないのだ。・・・

彼らが神に仕える目的は、究極的には彼ら自身に仕えることであって、ここからは神への侮蔑さえ生まれてくる。これはレングストルフの指摘です。

 

ファリサイ人も専門の学者も、それぞれ異なる事柄を指摘され、不幸である、と言われました。しかしこれらは同根です。その心が汚れているゆえに、実に身体も汚れているままなのです。「人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである」創世821

この指摘は恐るべきものであり、真に良心的な、正直な者は震えが来るような感覚を覚えるだろう。私などは、よく偽る者、自分自身すら偽ろうとする者だ。それでも、究極的には彼ら自身に仕える者、との指摘には震えを覚える。

 

主イエスは、ファリサイ人や学者、専門家に対して、もう一度悔い改めることを促しておられます。ことによると、彼らはこれまで本当の悔い改めを経験していないのかもしれません。しかし彼らは、民から尊敬されることを断念しない限り、悔い改めを迫るイエスの言葉に従うことは出来ません。この断念を彼らは決して欲しないでしょう。それゆえイエスに対する憎しみが燃え上がります。

昔から、役者と乞食は三日やれば止められない、と言われてきました。役者が河原乞食と呼ばれた時代でもそうでした。注目を招く、拍手喝采を受ける、ご祝儀・鳥目をいただく、他のことに換えられないのです。辞めた次になすべきことが用意されていなくては、辞めるにやめられないことも事実でしょう。

主イエスに結びつくことで方向転換が可能になります。行く先、なすべきことも、主が用意してくださいます。いつも主は共に居て見守ってくださいます。

安心して悔い改めてください。私などもそうして歩んできました。後悔はありません。