2014年10月26日日曜日

一羽の雀も忘れない方がいる

[聖書]ルカ12112
[讃美歌]200,17,577、
[交読詩編]148:1~6、
 

私たちが、このところを読み始めると、直ぐにひとつのことを思い出し、苦笑いを浮かべるように思います。それは、私たちの間の内緒話のことです。

「これは、秘密だよ。君にだけ教えることだぞ。誰にも言うなよ。」

勿論、是を聞くと話したい誘惑が襲ってきます。でも、かろうじて約束を守ります。

牧師の場合は、とりわけ、職務上知りえた秘密を他に告げてはならない、という守秘義務があります。メディアの取材を受けて、協力したくても、話してはなりません。知らない、と言うか、よく知っているから話すわけに行かない、とはっきり告げると理解してくれます。

やがて、違う人が、面白い話があるから、君にだけ教えてあげよう。他に漏らすなよ。

あの秘密の話が、その人の口から出てくる。彼は、自分に話しただけではなく、他の人々にも話していたのです。大丈夫かな。

こんな経験は、どなたもなさっておられることでしょう。

 

主が、本日の箇所で話しておられることには、同じようなことが入っています。

しかし、私たちの場合は、人間の愚かさの表れのようなものです。主が話しておられるような深遠な真理であるはずはない、と考えます。

主はこのところで、ファリサイ人の偽善について語られました。偽善とは何か。

ギリシャ語聖書では、ヒュポクリシス、ヒュポクリテース、という言葉で表現します。

辞書には、次の解説がついています。

ヒュポクリシスは、演技、芝居、偽善を示す言葉です。宗教における偽善とはいける神を観客席において仮面芝居を演じようとすることであり、内のことを外のことにすりかえて形の上での手続きや仕草を完全に行えばそれでよしとすることである。

同じヒュポクリノマイから生まれた言葉がヒュポクリテース、偽善者、見せ掛けだけの人。内のこと・霊のことを外のこと・形のことにすりかえてごまかす人。仮面をつけてドラマを演じる役者。

ヒュポクリノマイ、(元来「答える」という意味から)舞台の上で台詞を言って答える仮面芝居の役を演じる。演技する、ふりをする、見せかける。

 

主は、ここで偽善に対して警告しておられます。それも、ここあそこにいる偽善者ではなく、目に見えない、自分の内なる偽善です。キリスト教徒ではないのに信じているように振舞う。その逆もあります。シモン・ペテロはイエスの弟子なのに弟子であることを否定しました。どちらであっても、仮面をつけていることです。ある場合には、教会が強い圧力の下に置かれ、危機的状況におかれたとき、迫害の時代のことです。

誰もが、神のご計画よりも自分の都合を最優先に考えてしまう時です。

第二次大戦後、世界中の学者がさまざまな研究をしました。あのナチスの狂気は何事か。
ナチドイツと一般ドイツは別個のものである、と戦後ドイツは主張しました。しかし、多くの研究は、それを否定します。マックス・ピカートは、「われらの内なるヒトラー」と語りました。エーリッヒ・フロムは「人間は自由であることに耐え得ないために、強力な権威を求め、権力に従おうとする」と『自由からの逃走』の中で語りました。あらゆる人の中に、ナチズムが潜んでいたし、いるのです。すべての人が小なり大なりカインの末裔であることは否定できません。

(これは、2005年玉出教会でなされた説教《エデンの東》の一節です。HPより)

 

偽善は、人間の恐れの感情に関わっています。私たちは、多くの事物に恐怖します。大変な不安を感じます。痛みや苦しみの予感だけで、その場から逃げ去りたくなります。誰もその場から、自分を救い出してくれる者はいない、と承知しているのです。

 

このところは、おおよそ三つに分けられています。マタイ、マルコでは、また異なった文脈の中にあります。その上、ここでも、互いの関連性が明確である、とは言い難く感じられます。それでも、どうやらこれらは、安全無事なときのものではなく、迫害の時代が想定されているようです。

数え切れないほどの群衆が集まり、彼らに語られた、ということは、時間と空間を拡張して考えることを求めているようです。イエスが立っておられるその時、その場所を、さらに拡大します。イエスに従う弟子達の時代とその後の教会の上京。宣教の時代。

それは、弾圧と迫害、殉教の時代でもありました。数え切れないほどの群衆は、ここにも、あそこにもいたのです。

 

その頃、仮面をつけた者も多くいました。信者の仮面よりも、弟子ではないと見せる仮面のほうが、都合よかったかもしれません。主は、それらすべてをご存知であったように、すべての者に対する警告と約束が語られています。

失意・失望と不安・恐怖は確かにあるでしょう。信仰は、万能の痛み止めではありません。鎮痛剤、鎮静剤ではないのです。効かないとき、利かなくなる時がくるのです。私たちの状態がそうするのです。失いたくない者が多ければ、おそらく恐怖が大きくなり、利かなくなるのです。

そうした私たちに言われます。最終的に恐れられるべきは、人ではなく、神ですよ、と。

恐れ、恐怖の反対は、信じることです。信頼することです。

雀一羽さえ、お忘れにならない神が、御自身の弟子達を心にかけてくださるのです。

厚別教会創立以来50年は、小さな存在でした。主なる神は、忘れることなく心にかけ、お守りくださり、導いてくださいました。